要約:センサーが機能していなければ感じ取れない
ゆうきデカルトの原典=デカルトの思考そのものに触れて、むちゃくちゃもやもやしたところから
西田幾多郎は初めて読んでて、難しかったんだけど「なんかすごい」と感じれたこととのギャップがあった。
デカルトは読んでいてなんだかちょっとバカにしたくなったように思う。
デカルトの言葉は”当たり前”のように感じることが多かった。
デカルトを解説している人の言葉からは割とワクワクするものがあったのだけど、周りの評価と、その人自身の言葉では視点が違いすぎることをとても感じた。
しかし、自分の人生的な背景として、西田幾多郎に対してはある種の期待があったように思うけど、デカルトに対してはそうではなかったというのも少し起因しているような気がするけど、多分そうでもないのかもしれない。(今書いてて思った)デカルトの方法序説の和訳を直に読んで、違和感やもやもやが非常に残った。
西田幾多郎が書いた善の研究を読んだ時は、最初は全く何言ってるかはわからなかったんだけど、何言ってるかがだんだん「わかってきた」というより「なんかすごい」という感覚になって、心の感じがなんか上がったし今でも一番上がっているのが西田幾多郎の哲学だし、純粋経験の考え方は非常に人生に重要な感じがしている。
経験する、ということに対する考え方がなんかめちゃくちゃすごいんですよね。これは初めて読んだ時だけでなく今でも感動している。なんどでも深めたいと思う。
それに対して、デカルトの方法序説は感動がなかった。これにはショックという感覚だし、自分の読み方が甘いのか?新しい境地を開く必要があるのか?と思って昨日読み終えた後解説書を様々読んでみている。
方法序説の原典を読むまでは、デカルトの思考を辿って今度はどんなことがわかるのだろう?とむしろわくわくがあったのだけど、読んでびっくり。なんでこんなに評価されてるのだろう?と思っているわけで、
悔しさがあるので、続きの省察を買って読んでます。
もやもやしている理由がまだはっきりしていないけど、言えそうなのは
・奥深そうだけどそんなことない気がしている
かなあと。
どうして方法序説はあんなに評価されているんだろう。
というのは、方法的懐疑という確実でないことはとことん疑う姿勢がかなり重要だというのはわかるんだけど、そんなん当たり前じゃん、という気がしてならないのである。
哲学やらない人が哲学やる人に対して思うことってもしかしたらこれなのかもしれないですね。
自分というフィルターを通してでしか、世界を感じることはできないわけだけど、そのフィルターに搭載されてないセンサーは感じ取れない。(人間で言ったら嗅覚がない人間は匂いを感じることができない。あ、これって匂いを別の方法でイメージして感じ取ることもできるのか。。。それだったらすごいな。)でもそれって一応「予測」でしかないのかもしれないですね。
デカルトセンサーを発掘するか開発するか、はたまた予測するか。
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